2017年5月19日金曜日

アクセス関西の総会と学習会



517日、アクセス関西の総会と学習会が大阪市内で開かれました。
前半の総会は今年度来年度の活動、予決算の報告がありました。
総会はサクサク進み、後半の学習会です。
講師の尾上浩二さんがバリアリーの歴史をはなしてくれました。




以下不十分な要約

バリアフリー法から17年がたち、年は進んだが地方は変わらず、地域間格差が大きくなっているとまず話されました。そうした中で、バリアフリー法の改定が動き始めており、この時期にしっかり障害者運動として取り組むべきで、アクセス運動の歴史を振り返ることそれに資することになります。








お話は70年代を振り返ることから始められました。
福祉の町づくり運動は、1969年の仙台の「生活圏拡大運動」から始まった。車いす市民集会も定期的に開催されるようになりました。
70年代は介助者なしで電車に乗れなかったので、その撤回を求める運動。
駅舎のバリアフリー化、とりわけエレベータの設置を求める運動、などが行われました。
車いす使用者、障害者が街に出ることがとても難しかった時代で、交通事業者との間でのトラブルは日常茶飯事だったようです。
道路に関しても横断歩道がなくなり、歩道橋が造られるといった車優先の発想が根強くあった。
1973年車いす市民全国集会 準備をする中で障害者同士の結びつきができて団体の結成にもつながったようです。76年に京都大会があり、それをきっかけにJCILができました。
ハンディキャブの運動は1972年に東京・町田で始まりました。
電動車いすの普及の取り組みも紹介されました。
70年代は国産の電動がなく、海外のメーカーの製品を輸入していましたが、補助の対象外でした。東京都で独自に電動の貸与をする制度ができ、補装具制度が79年に作られ、電動に乗る人が増えてきました。






代表的なアクセス運動も紹介されました。
視覚障害者のホーム転落事故の防止を求める運動が73年の高田馬場駅での転落事故から始まりました。訴訟も起こされ85年に国鉄と遺族が和解しています。その結果、点字ブロックの敷設が進みました。
85年には駅員の車いす介助は正規の義務と認められるようになりました。

路線バスの運動
77年の川崎バスジャック事件は有名です。
川崎にも「青い芝の会」の事務所があり、多くの障害者が集まっていましたが、バスの対応はとてもひどく、100名の障害者が市営バスなどに乗り込み抗議しました。
91年には大阪でリフトバスが走りました、その後京都神戸もつづきました。

95年の阪神大震災で倒壊した阪急伊丹駅の復旧に当事者が参加する動きも紹介されました。

バリアフリーとエンパワメント

バリアフリー運動はエンパワメントにつながるという話も興味深かったです。
〇障害者参画の意義が具体的にわかる
  当事者が入らないとできたものが使えないことはよくあります

〇障害種別を越えた連帯ができる
  これは最近特に感じることがあるテーマです。障害によって使いやすさ、使いにくさは
  様々です。それぞれの意見を調整することがとても大事です。

〇地域住民との連携ができる
〇自己主張のトレーニング

バリアフリーの運動はとても豊かな内容を持っていて、取り組む中で広がりを獲得していくのです。
尾上さんは「西高東低」という表現で、バリアフリーを引っ張ってきたのは関西の運動だと言われました。
その伝統を受け継ぎ、様々な課題を解決していきたいですね。